2012年4月6日金曜日

昭和初期の教員の過労

私は今,昔の教員の苦境や困難に関する新聞記事を集めています。教職受難といわれる現在の状況を,歴史的な視点から逆照射してみるためです。

 人の不幸を採集しているようなものなので,根性がいやらしくなってきますが,掘れば結構出てくるもので,楽しみも覚えています。目ぼしい記事をスクラップしたノート(『教員哀帳』)も2冊目になりました。そろそろ3冊目です。

 今日は,1928年(昭和3年)から1925年(大正14年)までの縮刷版をくくってきました。この時期になると,地元の多摩市立図書館には縮刷版がないので,お隣の府中市の中央図書館まで足を伸ばしています。

 府中市立中央図書館は,多摩圏域で最も大きな図書館です。とてもきれいで,研究個室が使えるのもナイス。周囲に気兼ねなく,バカでかい縮刷版をくくることができます。使ったことがある方はお分かりでしょうが,昔の縮刷版は原寸サイズなので非常にかさばるのです。

 片道340円(バス代210円,電車代130円),往復680円はキツイのですが,「今日はどんな記事が出てくるだろう」という好奇心に突き動かされています。

 さて,今日もいろいろな記事を狩猟してきたのですが,そのうちの一つをご紹介します。


 「小学校教師の自殺:借金苦を苦にして」という物騒な記事も写っていますが,それは置いておいて,見ていただきたいのは右側の記事です。「教師の過労の弊」と題する投書で,1928年(昭和3年)1月24日の朝日新聞東京版に掲載されていたものです。

 過労・・・。現在の病める教員の姿をそのまま重ね合わせることができます。80年以上前の昭和初期における教員の過労とは,どういうものだったのでしょうか。記事の一部を引用しましょう。旧字体は適宜修正しています。


 どうやら投書の主は,小学校で6年生を担当している教員のようです。進学を希望する教え子の必要書類の準備に忙殺されている様がうかがえます。

 願書や履歴書といった基本書類に加え,成績表,身体検査表,個性調査書,家庭状況調・・・。しかも,学校ごとに様式が異なるときています。当時は,尋常小学校の上に,高等小学校,中学校,高等女学校,実業学校など,多種多様な学校がありました。帝国大学への進学コースの入り口である中学校と,中堅技術者を養成する実業学校では,求められる書類は全く違っていたことでしょう。

 故に,個々の児童の志望校1校ごとに,独自の書類をつくらないといけない。この時代はパソコンなどありませんから,フォーマットをストックしておいて使い回す(コピペ),というような芸当はできません。それどころかコピー機すらないのですから,オール手書きです。

 下から2段目の計算式にあるように,1校につき4時間かかるというのも納得です。進学希望者は約20人,1人3校志望が相場ですから,なるほど必要な労働時間は,4×20×3=240時間となるわけです。1月~2月の60日間でこの仕事(雑務)を仕上げる場合,1日あたり4時間の超過労働が,6年生の担当教員に発生することになります。

 また,こういう悲惨な状態もさることながら,そのことに対し世間が無関心であったのも苦痛だったようです。冒頭では,「(われわれが)どんなに働いているかを見てくれる人はいない」と嘆かれています。

 現在では,教員の過労は広く社会問題として認知され,多くの調査がなされ,対策についても論議されています。しかし,昔は違いました。激務の上に世間の同情もなく,おまけに待遇も悪かったのですから,当時の教員の状況は「踏んだり蹴ったり」だったともいえます。上記のような投書をしたくなる気持ちも分かろう,というものです。

 まあ,個別の事情を挙げればキリがありませんが,当時の教員が過労(多忙)状態であったであろうことを推測させる統計指標があります。それはTP比です。具体的にいうと,教員一人あたりの児童数です。この値が高いほど,教員の負担は大きいものと判断されます。

 3月28日の記事では,戦後初期の教員の多忙問題を報じた新聞記事(1952年6月24日,朝日新聞)を紹介し,その一因としてTP比が高いことがあるのでは,という推測をしました。しかるに戦前期では,この指標はもっと高かったようです。

 上記の記事の1928年,先の記事の1952年,そして現在という3時点について,小学校のTP比を出してみました。


 1928年では,教員数23万人に対し,児童数968万人です。教員一人あたり児童数は42.2人なり。多いですねえ。わが子の学級には60人を超える児童がひしめいており,これだけの「児童を責任をもって教育することは,並大抵の仕事ではない」と述べている,父兄の投書もあります(1927年7月21日,朝日新聞東京版)。

 なぜ,こういう状況だったのでしょう。まず,子どもが多かったためです。時期が少しズレますが,1920年の人口ピラミッドが,下が厚く上が細い純然たる「ピラミッド型」であったのは,昨年の5月15日の記事でみた通りです。

 加えて,教員の数が少なかったことにも注意を払う必要があります。当時は,慢性的な教員不足の状態にありました。大正末期の新聞をみると,「先生が足りない」,「臨時教員養成所増設」というような見出しの記事がちらほら目につきます

 待遇の悪さの故か,教員のなり手がいなかった頃です。昭和初期の不況期では違ったでしょうが,大正期の好景気の時期では,職業を聞かれた際,「教員」と答えるのをためらう輩もいたそうな(唐澤富太郎『教師の歴史』創文社,1955年,頁は失念)。

 極端な例では,教員になるのを嫌がり,自殺にまで至った者もあったそうです(1922年6月28日,東京朝日新聞)。小学校校長の養子で,教員になるのを強いられたとのこと。現在において,こういうことが考えられるでしょうか。そろそろ前期の授業が始まりますが,学生さんに聞いてみましょう。どういう反応が返ってくることやら。

 こういうことから,少ない教員で多くの児童を相手にせざるを得なかった状況でした。昭和の初期では,現在の半数ほどの教員で,今よりも多い児童の教育を行っていたわけです。

 話が脱線しましたが,小学校のTP比が,明治初期から現在までどう変化してきたかをたどってみましょう。文部省『学制百年史』と『学校基本調査』の統計を接合させました。各年の教員数と児童数を採集し,割り算をするだけですので,さほど時間は要しません。後者はもちろん,前者も文科省のHPで閲覧することができます。
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198102/index.html


 上記の投書が新聞に載った1928年(昭和3年)のTP比は42.2ですが,それよりも前の大正期,さらには明治期では,値がもっと高かったことが知られます。ピークは,1894年(明治27年)の55.5です。教員一人あたり55人超。すさまじいとしか言いようがありません。

 森有礼文相の諸学校令によって,近代的な学校体系が打ち立てられたのは1886年(明治19年)です。以後,小学校への就学督促が強化され,児童数が激増するのですが,初期の頃は,教員数の増加がそれに追いつかなかったためと思われます。

 TP比という単一の指標でみる限り,教員の負担は,時代を上がるほど大きかったようです。これから大正,明治期の縮刷版に当たってみるつもりですが,どういう教員の姿が出てくることやら。TP比が50人超の時代の教員って一体・・・。

 『大正期の身の上相談』(カタログハウス編,ちくま文庫,2002年)という本が出ていますが,『先生のお悩み相談』とでもいうような本がないかなあ。単行本ではないにしても,何かの教育雑誌で特集でも組まれているかも。新聞だけでなく,当時の雑 誌などにも目配りが要るようです。

 確か,『教育関係雑誌目録集成』(日本図書センター)という資料があったような。戦前期の教育雑誌の目次を集めたものです。これは都立図書館クラスでないとないだろうなあ。来週,都心で知り合いと飲むので,その日に行ってみることにします。